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全米女子プロ野球リーグについて

アメリカでは、1943年から1954年まで女子のプロ野球リーグがありました。そのリーグができたいきさつや経歴などを紹介します。

全米女子プロ野球リーグは、チューインガムの製造をする会社の経営陣で、シカゴ・カブスというメジャーリーグのオーナーも担っていたフィリップ・K・リグレーが創設したリーグです。創設当時は第二次世界大戦の最中で、多くのメジャーリーガーは兵役となったため、マイナーリーグでは人手不足が相次いで破綻する危機に陥っていた時代で、リグレーは人々に野球への興味を持ち続けてもらうために全米女子プロ野球リーグを作ったのです。

創設後は非営利団体として位置づけられ、カブスのマネージャー補佐だったケン・セルスやドジャーズの代表者府ランチ・リッキーらで組織作られ、ケン・セルスが理事となりました。

ルールはソフトボールのルールに近い形で決められ、選手はソフトボール選手の中からスカウトされるか入団試験で60名が選ばれ、4つのチームに分けられました。それらのチームで初めの年は年間108試合が行われ、17万人以上の観客が動員されたという実績をもちます。そして1944年には2チーム加えられ全部で6チームとなりました。

1945年には、リグレーからマイヤー・オフに経営が受け継がれ運営され、アメリカで有名なマックス・キャリーという選手が1949年まで理事長として就任していました。1945年当時は第二次世界大戦が激しくなったため、エキシビジョンゲームや軍をサポートするなどの活動を行い45万人もの動員を果たしています。

終戦後は、14歳から入団できるリーグを作ったりマイナー組織を作ったりして最大10チームとなり、さらに拡大していきました。遠征先もアメリカだけでなくキューバなどほかの国にも行ったので、多くの人々から人気を得て、1948年のピーク時には動員数が91万人にも上ったのです。

1949年に入ると、兵役のため不在だったメジャーリーグの選手たちが続々と復帰して来たため、女子のリーグの動員数は減少してきたのです。またルールも野球のルールに変えられたので、ソフトボールの選手は参加することが難しくなり、マックス・キャリーが1949年にオーナーを退いた後は、次々と球団オーナーに買収されていくのでした。その後も理事の入れ替わりも激しく経営が上手くいかなくなり、全米女子プロ野球リーグは1954年のリーグで終わりを迎えました。これが12年間あった全米女子プロ野球リーグの概要です。

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